性におけるLGBTQの問題とは何か考える。
これらはある種のグラデーションだと考えるだろう。
レインボーカラーはそういうことの表現だったりする。
肉体の性ですら男と女の間の表現型にグラデーションが有るのだから。
次に、心の持つ性、自分は心がどちらに寄っているかというと…というグラデーションだ。
そして、肉体と心の間で、自認する性の不一致がある。
次に、好きになる相手の性が同じか別か、どちらでもかという問題だ。これ自体にも、惹かれるのは、相手の肉体的性別か精神的性別かという問題が実は隠れているに違いない。
そしてQ、性自認を未確定、不明瞭いう問題。これにも問題がある。不明瞭なことのなにが問題か。という問題だ。
まあここまでは性が次元的に4次元とか6次元のグラデーション程度の問題だと認識すればいいだけなのだから大したことはない。
これに今度は発達過程の未成年の性自認の問題が絡んでくる。今海外ではそれらに対する一致手術が行われているのだという。
確かに成長前のほうが、大人になった時肉体的には近づけるだろう。
ここにも問題がある、肉体の成長に合わせて、精神的傾向の変化の可能性と、さらにそれらの変化が苦痛となるか、結果受け入れられるか未知であるというの問題だ。
更に精神的苦悩が、性という問題によって引き起こされているのではないか? という誤解や錯覚によって、誤った判断や手段を取らないかという問題だ。
これに異性という存在へ憧れという問題が絡んでくる、例えば男の子が女の子になってみたい。又はその逆やユニセックス、無性や中性になってみたいという状況だ。類似型として生まれ変わるなら今度はどっちで生まれたい?といったものもあるだろう。
そしてそれらは親の思想や判断の影響下によって、(最悪逆の性が欲しかったと思っていたり)修正されかねないという問題だ。それが肉体的か、精神的にかといった問題が、更に隠れている。
性という問題は根深いが、社会、周囲の環境がその根深さをカラフルに染め上げ、助長している可能性があるのもまた事実である。
それがカミングアウトやアウティングといった問題をさらにはらむ。
あるがままではいられない、性という存在の相互性の持つ”求める"というその本質が根源となった根深さがそこには有るのではないか。
そして根深ろうが、問題にする迄は問題ではない、結局どう反応するかが重要なのだ。