こねこねこねこブログにゃ♪

幸せそうな猫を見てると ちょっと幸せ。

期待という視点と豊かさとは何か思考を泳がせる。

お小遣いとして1万円札を見たとき、一万円の価値があり、物体としては何かと大概交換可能な複雑怪奇な紙であり、"交換可能な価値"と"交換可能な価値とを担保する社会構造"があり、価値を作り出すという精神活動を生み出す構造としての脳や肉体が存在し、それらの個を統合する社会構造が存在し、構造によって価値を定義出来うるが、価格というものは総体によっておよそ定義された価値であり、その価値を認めるかは相対性によるもので、例えば一万円札を見たときに、価値があると認識する自己と、交換可能な何かを期待する自己と、複雑怪奇な奇妙な紙切れと認識する自己とが存在している。

つまり総体的かつ相対的な構造が交換可能な価値を生み出すが、”””期待を生み出す”という価値”という構造”を、””情報として持っている”と暗に認識している”からこそ、奇妙な紙切れ以上の価値が社会構造としての価値として”交換可能な価値という価値の増加”もまた生み出されているのだろう。

景気が良いとは、パイが増える。ではなく”入手し交換を期待可能”なパイが増えるということで。

つまりは”値を付けること”が価値を生む。経済成長とは価値基準の社会的成熟こそがその本質で単純に物が増えることではない。有ったものと無かったもの。にて形作られ生み出されたもの。つまりは景気の生み出す未来という思いを馳せた”期待”をしている。

少し前であれば……例えば”モノより思い出”といった言葉は思い出という精神的な価値を置くためにではあるが、物質的存在という土台があるぞ。という価値のあり方として感じとる事が出来ていた。

情報化社会的と叫ばれて久しいが、そのユビキタス的性質や入手可能な質的情報は多様化している。技術的特異点を今まさに迎えようというこの時代では、曖昧な”常識的な”という部分が伸びしろになり、より、物質的な、物性的な、物理的限界が注目されるであろう。 非常識だったが不可能ではない分野が物理的限界まではより制約が取り払われる常識的の転換点を迎えようとしている。

私はまだ見ぬ想像もつかない驚くべき何かが生まれる未来に期待しているが、反面、世界平和は戦争の生み出す悲惨さ故に、その価値を上げていく。戦争は技術進歩の最前線としてその矛盾すらを構造として内包せざるを得ない。国境には積み上げた捧げた命の重みがついて回る。だが失望よりは期待のほうが好きだ。死人は夢を見ない。私は生きている。世界は人殺しの夢で出来ていると言われようと、それが罪を積み上げし人類史の見晴らしとしても。

”物質的な豊かさ”でも、”精神的な豊かさ”でもない”構造的豊かさ”という存在について価値を生み出す構造的紙切れを眺めて薄ら寒さとともに、素晴らしいものだなぁと。より成熟した社会的構造が生み出す価値基準とは何かと、それでも思いを馳せ淡い期待を膨らませてる。