人の痛みをわかる人になれと人は言う。
でも分かろうとする人ほど心をすり減らし、五感すらを壊し生きる実感すら解体してしまう。
寄り添うとはどういうことか。
生き物って強かでさ、意味無く生き残れる強さを内に秘め、世界に合わせて、壊れてでも足掻き生きようとするものな……。
だから今、表現出来る思いを記述していこうと思う。
愛は注ぐ対象に向けてあるのでは無く、内に在る存在として外に注ぐに過ぎないのだから……。
歪んだ鏡に、奇麗に映そうとする滑稽さ。
歪みを通しての傷の自己観察など安全なものでは決して無い。
傷口から目が離せない事と、傷口を好きかどうかは全く別の事柄で。
他人はベタベタと、そしてそんなに傷が大好きかと殴り付けてアザ笑う。 幾重にも幾重にも。
例えば、ある種の自傷行為は、死にたがり、他者依存等ではなく。
生きる上で作り出された自己肯定として、死にたいという、究極の極限にある、気持ちの自己肯定。そして死ぬのは怖い。と思えることの再確認なのだと感じ取れる人がどれだけいるというのか。
業火に身を投じて生かさざるをえない状況を理解し寄り添えるものがどれだけいる事か。
過去の思いを、記憶を。
間違っているとすれば、それは、そうであらねばならないという、その気持ちで。
記憶を、どうにかして別の何かに変換しようと、試行錯誤し、思い出の畳み方を間違えている。
上手くたためない。美くたためない、グシャグシャだ。そんな貴方に寄り添えたなら。
ホントは何かおかしい、と。何度も引っ張り出しては眺めなくて良い。
思いや記憶を、正しくたたみ直し、上手にしまえたなら。
それでよかったのだと。上手に仕舞えたなら。
必要となる時が来るまでは取り出す事すら忘れていてもよい。
そう。
わたしは一緒に痛いと泣く事しか出來なくともよい。
千万の本よりも、一滴の涙が理解の助けになるのなら。
それは私が泥をかぶることでもないし、被ってもいない。
私もきっと世界の泥の一部に過ぎないのだから。
歪んでいた鏡に合わせて、奇麗に映そうと歪めるのをやめよう。
歪んでいる鏡に合わせて、正しく映ろうと歪むのをやめよう。
現実と虚構の区別の付け方すら判らぬ世間ほど、現実をまるで虚構のように歪めて見ているかもしれないのだから。
差別も侮辱も軽蔑も。陰口も悪口も。軽視も誤解も何もかも。
あなたの言葉も行動も総て悪意と操作で染め替えて。
でも……。
それはそれを現実化するのが正当だと思う人がする愚行に過ぎず。
そして当然正しく見ようとする人は正しく見ようとする。
それ以上でもそれ以下でもない。
世界にあなたの中まで染めさせるな。
あなたの中にそれは一切必要のないものだ。
そして。
あなたもまた間違えている。
もしその先を見る気持ちがあるのなら。
歪んだ鏡を通して世界を写し見ている可能性に。
気付いて欲しい。
歪んで見えていることは間違いじゃじゃない。
理由のわからない何か正しさ。という愚かさを手に入れようとするのは間違いなのだと。
恐れるな。
眼鏡ですら一見正しく歪んでいるだけなのだから。
そして理解してほしい。
誰も彼もが知っていて、誰もの世界がそうあるように、
私達の世界もまた緩やかに寄り添い歪んでいてもよいのだ。
そして誰もが十分に優しいのだ。
あなたのように。