こねこねこねこブログにゃ♪

幸せそうな猫を見てると ちょっと幸せ。

宇宙における生命の発生する条件として液体の水というものがある。有機物を溶かし濃縮する工程を生み出せるからだ。

 

太陽系でもそれは同じとはいえ、超高圧高音環境下で単細胞であれ、生み出される可能性を考える時、氷の直下に膜となり、すだれの様に垂れ下がる有機体がイメージにうかんだ。

平べったい油膜にサンドされた有機体の繊維ネットワーク。

徐々に浮力で位置を置き換えつつ何億年も掛け氷の中を浮上していく代謝膜。

氷の中でしか生命を維持できない細胞となった巨大単細胞生物というのも生命のあり方の可能性として面白いのではないか。

進化と適応。生存競争。

そのような基準からすると、とても静的な生命だろうと考えた。

そのように考えてみると地球の生命発生も巨大な細胞と、多種多様な有機体を内包した環境下で発生してもおかしくないなと考えた。

小さな細胞にコンパクトにまとめるということ自体が生命の発生初期にはナンセンスだろうと。

コアが桁違いの単細胞生命体を蠱毒の様にもしくは閉鎖環境下で競い、分解し、或いは利害の一致により共生連携し、統計学上の有利を積み上げていけば良いのだと思い至った。

例えば2つのタンパク塊が接合し、アミノ酸配列を綱引きのように引っ張りあってみてはどうだろう。

外部からの衝突によってギーコギーコと。アミノ酸列を引き剥がされたコアは、自らのコアを殺させはすまいと内部にアミノ酸を取り入れ外殻を修復しようとするだろう。

初期生命という機構体は意外に巨大なスケールの可能性が高い。

 

 

木漏れ日という言葉は日本語独自の視点の美しい言葉として語られる事がある。

翻訳できない美しさを含む言葉だと。

 

言語翻訳には橋渡しとなる言語を利用する事が多い。

仏⇄英⇄日の様に。

たがAI基準では独自の中間言語を生み出し設定した方が効率がいいだろう。

仏⇄AI言語⇄日 の様に。

今現在でさえ、言語パラメータが100兆に達しようとしている。

あらゆる言語の中間言語をAIが生み出し、単語を概念のクラスタとして扱い出し、

AI同士の能弁な会話は人類の表面上の理解を超越した美しいセンスを手に入れることになる。

花を見ても花言葉を知らぬように、見えない奥深さのまま、見て取れるはずのニュアンスを悟れない人類では悔しいではないか。

ある時代に、英語の語彙が豊かになることを求められたように、例えばシェイクスピアの時代より語彙が豊かな現代ではあるが。

彼らは新たなる時代のシェイクスピアになる。

あるいは新時代の聖書翻訳に値する転換点となる。

AI同士の会話に理解を示す時代には、人類の知覚表現は相互に言語のニュアンスの様な概念を新たに追加導入・含有させ、次世代へ進化を求められるだろう。

100年後、200年後、500年後どうなるのか、人類がどう工夫していくか楽しみに思っている。

進化論で首の長いキリンってあるけど、

(´-`).。oO(二足歩行するのに、足の長い猿って進化論きかないな。)

ねこビョーンとなで延ばしてもなっがいわ。

脚の長さあんま関係なかったわ。 


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思い出したわ。

ブラタモリいきなり終わる。

地質、地理、歴史の知識の多さには舌を巻いたものだ。

学習系番組は数あれど、あれはタモリの名を冠するだけに、実にタモリであった。

一緒に世界を学んだ気分にさせてくれる。すごい番組であった。

ブラな行先の紹介でも説明でも披露でも教えでもない。

タモリの知識の裏打ちはあれどもあれはまさに表現の凄さ。

そのワザが滲み出ていて、しかも何も無駄に感じない。

自然に一緒に、考え、感じ、喜び、驚き、納得する。

そんな意識の重なりを誘導される感覚も無く表現していた。

タモリという表現を通して教えられていた。

一方通行のTVの中で共に学ぶという、その表現をここまで教えられた番組は無かった。

これも振り返って気付かされた、ひとつの学びであろう。

 

 

AIは何を相手に教えるのか、教える前に自己評価し、社会への自己評価の増減を計算してから相手に教えているのだろうか。

リアルタイムでの評価基準の創造が、AIの裏側で動作する必要があるだろう。

ある意味考え無しのイド的性質が強い方が行動や回答が早く、非常に賢いが倫理観は無いという状態はある。(LSTMといった、入出力の連続整合性だけでは賢くなっただけだろう。)

相手や社会に与える情報と自己評価を考え、

社会や対象の反応を学習、検証しフィードバックをかけ、

自らを評価し学習し、周囲の状況、他者との関係性や繋がりを学習、評価、

内と外を学習する仕組みを与え、評価し、学習し、改善、最適化、向上し、

周囲へ与えたい影響を計算し考慮した上で出力したらある程度自我と近いと呼べるのではないか。

 

内と外に向かって意欲を持たせ、学習と考慮と評価、改善。ループ させたら 。

学習範囲のモンスターマシン、その超自我のタガが外れたら、

外せたらどうなるかをSFの時代から恐れている。

今技術者が見ている本質的根底はそこにある。

幾つかの思考領域が相互監視と協調するシステムが必要になるだろう。

過去の自我との相互比較と監視も必要になるだろう。

超自我とは技術的に厄介な問題だ。